柳橋の歴史

柳橋村


下大野東南に所在。東端を長井戸沼(現在は水田)東枝が南北に通り、西端を長井戸沼枝が
南北に通る。南北は台地上に続き、北部は平地林。八木橋とも記し、字柳橋は弘法大師が行
脚の折りに小川を渡るため傍らにあった柳の木を八本切って橋にしたとの伝説がある。村域西
の字香取前の香取前遺跡は古墳時代のもの。東方の字弁才天B遺跡が確認される。字
砂久保
より板碑三基が出土し、一基は天文20年(1551)の銘を刻む。この頃の梅千代王丸
足利義氏
充行状写(豊前氏古文書妙)に〔八木橋・葛生之事、為御新恩、被充行之状如件、
天文廿三年
七月廿八日  豊前左京亮殿〕とあり、葛生とともに豊前氏の支配を受けた。天文
二年(1574)
には「やぎはし、かずらふ」のことで足利義氏が豊前山城守後家に二通の書状
(同文書)をしたた
めている。天文十八年の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)の「幸嶋郷之内」
に「拾八貫文やぎはし」
とあり、山川城(現在結城市)城主山川晴重の領地。山川氏は慶長
六年(1601)越前に移ったが
同十七年の関東八州真言宗連判留書案には「山川領柳橋村」
竜政院がみられる。「寛文朱印留」
によれば古河藩分は葛飾郡、壬生藩分は猿島郡となっている。
元文三年(1738)の乍恐口上之覚
(長野監治文書)には「下総国猿島郡、伊那左衛門御代官所、
鳥居伊賀守知行所、山田権次郎知
行所、大沢主馬知行所、柳橋村」とあり天領・任生藩鳥居氏・
旗本二氏の四給支配。大沢氏の知行
開始も同年で山田直治の時。文政二年(1819)の加助郷
免除願書(菅谷家文書)には天領分がみ
えず、下総関宿藩領が加わっている。日光街道の中田宿
(現在古河市)・栗橋宿(現埼玉県北葛飾
郡栗橋町)より下妻・下館への脇往還継場で、助郷役は
ないが、村内は低地で雨天続きにすぐ冠水し、
田舟で継立するほどの水難の村で退転百姓が多く、
人口は格別に減少しているなど記す。
安政二年(1855)の組合村々村高書上帳に村高三一○.
五八五石のほかに竜蔵院朱印
地二五石、合計三三五五八五石。大沢氏、関宿藩領が四八・一三
九三石、天領四八・一三九四石、
壬生藩領一六六・一六七石。反別八九町四反五畝二七歩のうち
田一六町五反九畝一四歩・
畑七二町八反六畝一三歩。家数四○、人口二一三のうち男一二○・
女九三、馬一二。

柳橋城跡

柳橋集落中央北部、愛宕社付近と考えられる。西の長井戸沼東枝、西の長井戸沼西枝に挟まれた
台地で、若干の遺構がのこる。「東国闘戦見聞私記」によれば鎌倉公方足利基氏の部下の土岐大膳
太夫頼遠の三男弾正忠が当地をはじめ周辺を領有し、柳橋と改名したといわれ、この弾正忠が柳橋
城を構えたものとみられている。天文二十三年(1554)小山朝政は柳橋豊前守の柳橋城を攻落。
在地勢力九○○余人が籠城・防戦さたが柳橋勢は壊滅し、豊前は縁家の狩間城(現筑波郡谷田部町
)城主野中瀬左衛門
のもとに逃れたという。この合戦は竜蔵院をも巻き込む戦いであった。



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