| 柳橋村の南に在住。東端を長井戸沼(現在は水田)東枝、西枝も長井戸沼西枝が南北に通る。 天文二年(1533)下野中内の郷士宗久らが移住し、荒地を開拓して葛の根より葛粉を製造 して資材をなしたために葛生と称したと伝えられる。 長井戸沼西枝に臨む台地に多くの遺跡があり、萩山A遺跡は弥生・古墳時代。萩山B遺跡・鍋 隠遺跡・宮戸井遺跡・磯の木A遺跡・磯の木B遺跡・仁階木A遺跡・仁階B遺跡・杉の木遺跡は 古墳時代で土師器・須恵器が出土。萩山C遺跡・磯の木C遺跡は製鉄跡。伝説によれば当地 は正平七年(1352)に磯玄蕃正純と峯警部勝春の采地となり、磯氏は鍋台、峯氏は札の辻台 に館を構へた。磯氏は八町歩に萩を植え、萩の御殿・萩の庄と称し、それが字萩山の地といわ れるが、嘉吉の乱に際して領地を没収されたという。また、「東国闘戦見聞私記」によれば柳橋 城主柳橋氏が当地などを領し、天文二十三年の小山朝政による柳橋城攻略の時、当地の勢力 も柳橋城に籠城している。他方、同年の梅千代王丸足利義氏充行状写(豊前氏古文書妙)に よれば柳橋とともに豊前左京亮の支配地(柳橋村)。天正十八年(1590)の豊臣秀吉宛行状 (山川修二文書)の「幸嶋郷之内」に「拾八貫文かずらふ」とあり、山川城(現結城市)城主山川 晴重の領地。寛文元年(1661)から旗本山高信俊の知行地となり、明治に至る。村高は元禄 郷帳の三九一・四三石が明治まで変わらない。反別一二七町六畝九歩のうち田一三町五反 四畝三歩・畑一一三町五反二畝六歩。正徳六年(1716)には下野野木宿への助郷をめぐる 争いがあり(久能村)、文化一五年(1818)には稲尾村(現境町)との林野論が展開されている 寛政七年(1795)の小金野御鹿狩法事御用向留帳によれば人足三一人が弁当・水を持参で 出没している。安政二年(1855)の家数六五、人口三四三のうち男一八六・女一五七、馬二二 |